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武蔵野航海記

武蔵野航海記

お家大事

風邪をひいていたのと何かと忙しかったのとで、日記をかなりサボってしまいました。

先日、井沢元彦の「逆転の日本史」を読んでいました。

江戸時代初期のことを書いていた部分で「なるほど」と思ったことがありましたので皆さんにご紹介しようと思います。

徳川の御三家はご存知のように、尾張徳川、紀州徳川と水戸徳川です。

尾張と紀州の徳川藩主は官位が大納言ですが水戸だけは中納言でした。

水戸藩士としては同じ御三家なのに自分の殿様だけが中納言であることが悔しくて、主君を中納言と呼ばずに「黄門」と呼んでいました。

「黄門」とは中納言の俗称です。

また石高も尾張の62万石、紀州の56万石に対して水戸は35万石でした。

御三家は徳川本家に跡継ぎがいないときは御三家の誰かが将軍を継ぐというものでしたが、水戸は明らかに尾張、紀州とは同列に扱われていませんでした。

水戸は風変わりな家風で代々尊王の気持ちが強く、幕末には「水戸学」という尊皇攘夷の思想の本家になり明治維新を招来しました。

二代藩主の水戸黄門(徳川光圀)は「大日本史」という尊王を表に出した歴史書の出版を決意し、歴代の藩主はその編纂事業を継続していました。

この「大日本史」の編纂が一段落したのが幕末で最終的に完成したのは明治39年でその間に水戸藩が投入した費用は莫大なものでした。

徳川光圀は、「徳川将軍は自分の本家というだけのことで、自分の主君は天皇である」という将軍から見れば危険思想の持ち主でした。

彼の遥かな子孫が徳川慶喜で最後の将軍になったのですが、慶喜は鳥羽伏見の戦いで薩長軍に錦の御旗が翻っているのをみて戦わずに江戸に逃げて帰り、以後謹慎しました。

水戸藩の尊王の伝統は光圀に始まるのですが、従来の歴史家は光圀の個人的なひねくれ根性から本家に対抗して「尊王」を唱えたのだと考えていました。

しかし井沢元彦はそんな単純なものではないと言うのです。

徳川家康は徳川家がどうすれば永続できるかを考え抜いた男でした。

外様大名には大封を与えましたが、その領地は日本の中心から遠く離れた僻地にしました。

また彼らを政治に一切参画させませんでした。

その一方譜代大名は幕府の政治に参画させましたが、領地は小さなままに留めました。

軍事力と政治権力が集中しないようにしたわけです。

大名の家族を江戸に住まわせて人質とし、さらに武家諸法度を制定して彼らを統制しました。

このような用意周到な家康が、徳川家の潜在的な敵である天皇を見過ごすはずがありません。

一般的には「禁中並びに公家諸法度」の制定が家康の天皇・公家統制策とされています。

公家や天皇は「歌だけ詠んでいればよいので、そのほかの余計なことはするな」と命令したわけです。

これらは徳川幕府を永続させるための政策です。

しかし井沢元彦は、家康が徳川家永続のために考えた政策はこれだけではないと主張しています。

江戸幕府という政権の永続を考えるだけでなく、徳川家そのものの永続も考えたというのです。

そしてその仕組みが水戸徳川だというのです。

武士は自分個人が生きながらえることより、一族の存続を優先しました。

鎌倉時代直前に起きた保元の乱や平治の乱では、源氏も平家も一族が敵味方に分かれてどちらが勝っても、勝った方に味方した一族が生き延び家名を存続できるようにしました。

戦国時代でも同じで、大勢力どうしが戦ったときは、その境目にいた弱小の豪族は一族が両方に分かれて敵味方となりました。

信濃の豪族真田氏は甲斐の武田の重臣でしたが、武田家滅亡後は周辺の大勢力である徳川、織田、上杉、北条などの鼻息をうかがいながら何とか自立しようとしていました。

関が原の合戦の時、当主の昌幸と次男の幸村は大阪方に味方し、跡取りの信之は徳川に味方しました。

この時の合戦は非常に面白いものでした。

関が原の合戦では徳川家は軍隊を二つに分け、一つは親父の家康が率いて先に関が原に到着していました。

もう一方の3万8千の兵力は息子の秀忠が率いて江戸から関が原を目指して中仙道を進んでいました。

そして中仙道の上田城に真田昌幸と幸村がいたのです。

真田親子は3万8千という大兵力が関が原に行くのを阻止しようとして、秀忠を挑発しました。

家康は秀忠が馬鹿息子なのを心配して優秀な軍師を付けていました。

この軍師は真田親子の意図を悟り、上田城など相手にせずに関が原に急行すべしと必死になって説得しました。

しかし頭に血が昇った秀忠はこの説得を無視し上田城を包囲して時間を無駄にしました。

そして結局関が原の合戦に間に合わなかったのです。

親父の家康は直属の軍隊の半分しか大事な合戦に使えなかったのです。

怒り心頭に発した家康は、遅れてきた秀忠が挨拶にやってきた時も合わずに追い返したそうです。

こんな使い物にならない男を二代将軍にしたのは、家康も色々考えるところがあったからです。

跡取りの真田信之が徳川方についていたので、真田家は大名として存続出来ました。

真田信之は必死になって父と弟の助命を家康に嘆願したので、二人は命を助けられ紀州の九度山に流されました。

15年後の大阪の陣で、幸村は大阪方の武将となって大活躍し討ち死にしたのは有名な話です。

このように大名家の一族が敵味方に分かれて家名の存続を図るのは当然の話でした。

そして家康も、将来徳川家が敵に攻められて一族全滅の危機に逢うことを想定しました。

そしてこの時に徳川の家名を残すために水戸家を使おうと考えたのです。

ここのところ机にゆっくり座る時間が無く、ブログもいい加減にごまかしていました。

そして今「お家大事」が書きかけであることに気づきました。

さて、徳川家康は自家の安泰を図るために様々な対策を講じましたが、天皇への対策も見逃しませんでした。

禁中並びに公家諸法度で歌を詠む以外事をしてはならないと定めました。

大名たちに対しては、天皇と勝手に接触することを禁じました。

しかしそれだけでは安心できませんでした。

家康は学問が好きで鎌倉幕府のことを書いた歴史書である「大鏡」や太平記を読んでいましたので、天皇によって鎌倉幕府が潰された事情を良く知っていました。

そこで天皇を擁した反乱軍に徳川の軍勢が負けてしまうという場合も想定しました。

この場合、征夷大将軍という役職を天皇から取り上げられてしまうのは仕方がありません。

それだけでなく、徳川一族は皆殺しになることを覚悟しなければなりません。

鎌倉幕府が滅ぼされた時北条一族は皆殺しにされ、うまく逃げた者も山奥に隠れ住んで生き延びただけで、大名として堂々と表を歩ける状態ではありませんでした。

家康は徳川軍が天皇を擁した反乱軍に負けても、一族を大名のまま存続させる方法を考えたのです。

こういう場合の武士の伝統的な方策は、一族の一部を敵に味方させることです。

そして家康は、御三家の一つである水戸徳川家に、「反乱軍が天皇を擁したときは天皇方に付け」とひそかに命じたのだと井沢元彦は書いています。

こういうことを云っても歴史学者が賛同するはずがないことを井沢元彦は承知しています。

証拠となる文書がないからです。

井沢元彦が主張するようにこういう態度が日本の歴史学の欠陥で、証拠となる文書がないとそんな史実は存在しなかったことにしてしまうのです。

逆に「証拠」があればどんなに常識に反することが書いてあってもそれを否定できず大混乱に陥ってしまうのです。

一つの例を挙げます。

織田信長は琵琶湖のほとりに安土城を作りましたが、この名の由来を書いた文書がありません。

ある学者が「支那の古典からとって名づけたのだ」という推論を発表しました。

平安京は「平安楽土」という言葉の最初の二文字を採ったのですが、これは証拠があるので歴史家も認めています。

そして信長のブレインは、この言葉の二番目と四番目を採ったのだとその学者は推論したのです。

天皇や室町幕府のあった京都に対抗して新しい都を作るのだという信長の気負いが感じられる命名で、私は非常に的を得た推論だと思います。

ところが歴史学会は文書が無いという理由で黙殺しました。

そのうちに郷土の研究家が、安土城跡の近くに安土という地名があると発表したのです。

多くの歴史家はこの説に飛びつきました。

しかしこの説を採用するには、お城が出来るはるか以前からこの地名があったことを証明しなければなりませんが、そんなことをした様子はありません。

まあこんな具合で、井沢元彦は自分の説が学会で受け入れられることは無いと承知のうえで、自説を展開しています。

「徳川幕府に対する反乱軍が天皇を担いだ時には、水戸藩は徳川本家の将軍に逆らって天皇側に味方せよ」という密命を出したと井沢元彦は推定します。

そんな大事な命令を口頭だけで文書にしなかったのかという疑問が沸いてきます。

井沢はこれを「言霊」の為だと説明しています。

言葉には力があり、言葉にした願望は実現されるという考え方です。

日本では古代から今までこの「言霊」が信じられているのは事実です。

古代の話をすれば、万葉集の有名な歌人である額田女王は言霊のプロでした。

天皇は飛鳥の甘樫の丘に登り、そこから国土を見渡して徹底的に国土を誉める歌を詠むのです。

「この土地は何と美しい土地か!気候は穏やかで作物は実り、女は美しい。この土地のおかげで皆は幸せに過ごしている」とかなんとかそういうことを云うのです。

そうすると大地はおだてに載ってすっかり嬉しくなり、実際に豊かな実りをもたらすのです。

糠田女王は天皇の作るべき歌を代作するのが仕事でした。

逆に悪いことも言葉にすると実現すると考えました。怨霊です。

怨みを呑んで死んだ権力者は怨霊になり、その呪いは実現するというのです。

日本で最大の怨霊は崇徳上皇です。

保元の乱で敗れて島流しに逢った崇徳上皇は、配所で心を込めて写経しました。

そしてこのお経を京都のお寺に奉納してくれるように天皇に頼んだのです。

ところが天皇の側近が「崇徳上皇は我々を恨んでいるから、このお経には呪いが込められているに違いない」として、突き返してしまいました。

怒り狂った崇徳上皇は、返されたお経に自分の血で呪いを書いたのです。

「この国をメタメタにしてやる。天変地異が続発し民は苦しめ。天皇は家来になり、家来が支配者になれ。」という具合です。

そして、この呪いの通りに飢饉が発生し源平の合戦が起きて民は右往左往しました。

平清盛は後白河上皇をいじめ、源頼朝は幕府を開いて天皇の権力を奪いました。

承久の変では、鎌倉軍が天皇軍を撃破し、三人の上皇を島流しにしました。

天皇が家来になり、家来が支配者になったのです。

皆は崇徳上皇の怨霊が暴れだしたと真っ青になったのです。

怨霊の例としては、前回書いた崇徳上皇以外に菅原道真のケースがあります。

弱小の氏族出身で大臣にまでなり、藤原氏に警戒されて冤罪で九州の大宰府に左遷され、そこで亡くなってしまいました。

東風吹かば 思い起こせよ梅の花 主なしとて咲きな忘れそ

というのは配所で都を恋うて詠んだ歌です。

道真が配所で亡くなったあと都で異常な事件が次々と起こり、人々は道真の怨霊だとして、大宰府天満宮に厚く彼を祭りました。

この怨霊信仰が何時ごろから始まったのかは色々議論がありますが、私は奈良時代より前だと思っています。

出雲大社の祭神は大国主命ですが、彼は征服者によって奈良時代よりはるか以前に殺害された出雲国王です。

彼はうらみをのんで亡くなった権力者であり怨霊となる資格は十分です。

彼が暴れださないように出雲大社に祭ったのです。

そして出雲大社の神主は大国主命を殺害した征服者の子孫です。

出雲大社にも当然拝殿があり本殿の正面から礼拝するようになっています。

この本殿の中に入ると正面に祭ってあるのは征服者の霊で、大国主命は90度横に祭ってあります。

この征服者の霊は大国主命を監視している看守なのです。

この本殿の構造を知らない人が拝殿から礼拝するとなんと看守を拝む仕組みになっています。

殺された前国王の霊を征服者が如何に恐れているか良く分かります。

そして征服者は系図上では天皇家の分家になります。

こういう具合に怨霊・言霊というのは日本人の行動の大きな原因になっています。

しかし最近まで学者は霊とか宗教と言うのをバカにしてまともに扱っていませんでした。

8世紀末に都が奈良から京都に移りましたが、最初は京都近郊の長岡に新しい都を建設していたのです。

莫大な労力と金を使ってほとんど長岡京が完成するというときに、突如として長岡京の建設を中止し京都に都を作り始めたのです。

学者たちは経済的理由や政治的理由をさまざまに挙げてこの不思議な計画変更を説明しようとしましたが、まともな説明が出来ません。

実は当時、天皇家の内紛で早良皇子という皇太子が長岡京で殺され(自殺し)その後彼の怨霊が大暴れしたのです。

だから穢れた長岡京を廃棄して京都に新しい都を作り直したのです。

怨霊の恐ろしさと言うのはこれほど壮大な浪費までさせるほどです。

怨霊・言霊が如何に日本人に大きな影響を及ぼすかを最初に説いた学者が梅原猛です。

彼は初めのうちは「進歩的文化人」に馬鹿にされましたが、最近になって彼の言うことに賛同する人が増えてきました。

古代日本では怨霊が大活躍していました。

ですから生きている者たちは必死になって怨霊を慰め暴れないようにしました。

具体的には神社で祭り祈ったのです。

その結果、怨霊が良い霊に変わり生きている日本人に恵みをもたらすようになりました。

また、良いことでも悪いことでも言葉にしたら、やがてそれは実現されるという言霊の信仰を持っていました。

ここまで云えば皆さんはもうお気づきの様に、言霊信仰は今も日本人の中に脈々と生き続けています。

「そんな縁起でもないことを言ってはいけない」というを今でもしょっちゅう日本人は言います。

縁起でもないことが現実になることを恐れているのです。

この日本人の性癖によって危機管理(リスク・マネージメント)が満足に出来なくなっています。

「もし今東京をマグネチュード8の大地震が襲ったらどうなるだろう」

「もしも北朝鮮が東京や大阪にミサイルを撃ち込んだらどうなるだろう」

すこし前にこんな「もし」を発言したら、「縁起でもない」と怒られたことでしょう。

しかし今はこの危険が十分起こりうることを否定できませんから、さすがに「縁起でもない」という人はいなくなりました。

危機が起こる直前まで「もし」をわざと考えないようにし、いよいよ直前になってあわてだし、準備不足なまま危機に直面することになります。

民法には「夫婦財産契約」という規定があります。

結婚前に婚約者どうしが交わす契約で「もし、将来離婚した時は財産や子供などはこのように処理しよう」という約束です。

これはヨーロッパでは常識になっている契約で、日本の民法はフランス民法を翻訳しただけのものですから、明治時代に民法を作る時にこの規定も取り入れました。

しかし今の日本ではまったく使われていません。

この「夫婦財産契約」は結婚する前にしか締結できない契約です。

結婚後にこの契約を認めれば、夫の強制によって妻に不利な契約内容になってしまう恐れがあるからです。

日本の婚約カップルに夫婦財産契約を薦めれば、返って来る返事はわかってします。

「そんな縁起でもないことを!!」

このように言霊は今の日本でも元気に跳梁しています。

現代でさえ日本では言霊が大活躍していますから、徳川家康時代の日本人も言霊を気にしていました。

「徳川に反抗する連中が天皇を担ぎ出した時は、水戸家は徳川本家に逆らって天皇に味方し、徳川の家を絶やすな」と家康が密命を出したというのは十分ありえる推論です。

そして井沢元彦は、この密命を家康が文書にしておかなかったのは「言霊」のためだというのです。

「反乱軍が天皇を担ぎ出して徳川家がピンチに陥る」という想定を文書にしたら、それが実現してしまうと家康は考えたからだというわけです。

しかしこれはおかしいです。

口頭で言うだけなら言霊は作動しないが文章にしたら実現してしまう、などということはないでしょう。

言葉を発するだけでその内容が実現に向かって動き出すというのが言霊です。

家康がこの密命を文書にしなかったのは、彼が優秀な政治家であり支配者だったからだと私は思います。

家康の密命を文書にし、多くの幕府幹部が承知している事実になれば二つの不都合が生じます。

一つは、これによって水戸家が江戸幕府の中で浮き上がってしまうということです。

「最終的な段階では、水戸家は我々を裏切る家だ」ということを他の御三家や譜代大名が知ったら、彼らは水戸家に対して疑心暗鬼になります。

水戸家と他の幕府幹部の間に亀裂が生じて内紛の原因になり、これによって幕府が瓦解してしまうかもしれません。

二つ目は、幕府の敵がこれに乗じるということです。

多くの譜代大名の間に知れ渡った事実は、やがては外様大名や朝廷にも漏れていきます。

そうなれば、敵は幕府の中枢に水戸家という味方を確保しているということを悟ります。

敵の反乱を促すようなもので、家康がこんなアホなことをするはずがありません。

家康と水戸家の初代頼房以外は、二、三人しか知らないという状況の方が納得できます。

水戸家の初代頼房から二代目光圀にも口頭で伝えられたのでしょう。

家康が「反乱軍が天皇を擁したら、水戸藩は天皇方につけ」と密かに命令した根拠として井沢元彦は色々上げていましたが、その中に正妻のことも書いてありました。

徳川将軍や分家である御三家の当主の正妻は皇族か公家の娘が多いのです。

ところがこの正妻が跡継ぎを生まないように配慮していたというのです。

将軍の母方の祖父が天皇だとなれば、平安時代の藤原摂関家の逆のような現象が起き、天皇が幕府に一定の影響力を持つようになってしまうからです。

ところが水戸家だけは皇族の正妻が生んだ男子を平気で当主にしていたというのです。

ほんとかなと思って調べてみると確かにそうでした。

将軍家の跡取りは全て側室が産んでいます。

しかし水戸家の当主の中には実母が皇族だというのがいるのです。

最後の将軍だった徳川慶喜は水戸家の出身でした。

水戸家の9代藩主徳川斉昭の七男でしたが、実母は有栖川宮織仁親王の娘吉子です。

彼は10歳の時に一ツ橋徳川家に養子に行きました。

一ツ橋徳川家は御三卿の一つです。

御三卿というのは、田安徳川家、一ツ橋徳川家、清水徳川家の三つですが、非常に奇妙な存在です。

それぞれ10万石づつを幕府の予算からもらっていました。

領地を貰ったわけではないので独立の大名ではなく、法的には将軍の家族なのです。

家来も独自に召抱えるというのではなく、将軍の直臣である旗本・御家人が出向していました。

この御三卿を作ったのは八代将軍である徳川吉宗でした。

彼は息子二人と孫一人を当主にしたのですが、その理由は将軍が跡継ぎなくして亡くなり御三家にも適当なのがいなかった時の為に、血筋を保存するというものです。

これはまたおかしな屁理屈で、御三家には当主・分家合わせて家康の血を引く男子がゴマンといるわけで、余計なものを作る必要などないのです。

御三卿を作った八代将軍徳川吉宗は実は将軍の息子ではありません。

吉宗は第二代紀州藩主徳川光貞の4男でした。

母親は百姓の娘で、お城で風呂番をしている時に殿様の目に留まり手が付いて生まれたのが吉宗です。

4番目であり母親の身分も低いので、紀州藩の侍として一生を終わるのが普通でした。

ところが彼が江戸にいる時に、将軍綱吉が紀州藩の藩邸にやってきたのです。

藩主である父と兄二人は将軍に拝謁し、吉宗は控えの間にいました。

その時に老中が将軍綱吉にもう一人息子がいると告げ、彼を拝謁の間に呼び出しました。

これは大変なことでした。

将軍に拝謁したということは、紀州藩主の息子であるということが公式に認められたということです。

紀州藩56万石の息子であれば、小さくても大名にしなければなりません。

そして彼は越前に3万石の領地を与えられて大名となりました。

その後、父が死に兄たちが死んで、吉宗は紀州徳川藩の藩主になりました。

そのうちに将軍が跡継ぎを残さないで亡くなったので、尾張徳川藩と紀州徳川藩が将軍の座を狙って熾烈な争いをしました。

御三家ということであれば、水戸徳川家の男子も将軍の候補になるはずですが、水戸家ははじめから対象外になっています。

なにやら水戸家出身者は別で将軍にしないというコンセンサスが幕閣の間にあったみたいです。

このようにして吉宗と尾張徳川藩の仲が悪くなり、彼は自分の子孫で将軍の座を独占するために御三卿を作ったわけです。

御三卿のうち、二つは吉宗の息子が当主で、いま一つは孫を当主にしたのです。

将軍の血筋を温存するのが目的の御三卿の一つである一ツ橋家に、将軍にしてはならない水戸家の男子が養子に行ったのです。

こういうところが日本の一族の特徴です。

厳密な血統ではなく、家を継ぐものであれば他人でも構わないと考えるのです。

家を継ぐというのは家業を継ぐことであり、初代の家訓を守るということです。

吉宗の意志を継いで将軍の候補者を温存すればよいわけで、養子になった段階で実家の習慣考え方を放棄するのです。

慶喜も水戸家の家訓(反乱が起こったら天皇方に付け)を放棄し、吉宗の意思を継ぐことを期待されたのです。

徳川慶喜は水戸家を出て一ツ橋家に養子に行ったことで、公式には将軍の後を継ぐ資格を得ました。

しかし幕閣や大奥には水戸藩が大嫌いという者が大勢いて、実家が水戸である慶喜も非常に嫌がられました。

江戸時代の大奥の勢力というのは大変なもので、大奥に嫌われた老中はいとも簡単に失脚したのです。

当時は江戸幕府の末期で尊皇攘夷論者が幕府に反抗していましたが、その尊王攘夷思想の本場が水戸藩だったからです。

二代目藩主の光圀は天皇を異常に崇拝し「徳川将軍は本家にすぎないが京都の天皇は主君だ」と公言していました。

また彼は天皇や公家たちと個人的に交際していましたが、これは武家諸法度で禁じられていた行為でした。

そして日本の正統な支配者は天皇であることを証明しようとして「大日本史」の編纂を開始した人物です。

彼の行動は徳川将軍家を補佐する御三家の当主としてはどうにも異常なのです。

私は以前からこの光圀の行動がどうにも不審でならず、彼は精神分裂ではないかとも考えていました。

ちょうどそのときに井沢元彦の「反乱軍が天皇を擁したら水戸藩は天皇方につけ」という家康の密命があったのではないか、という推論を読んでなるほどと思ったのです。

「大日本史」編纂事業は光圀の死後も続けられ、完成したのは何と日露戦争後の明治39年です。

この大日本史編纂事業を通じて、尊皇攘夷思想である水戸学が形成されました。

もう一つ慶喜が幕閣や大奥に嫌われた理由はその父の存在でした。

慶喜の実父で水戸藩主の徳川斉昭は変質者で、他の大名家の女中を強姦したりしたのです。

そうこうしている内に江戸幕府を巡る情勢はいよいよ悪化し、嫌われ者の慶喜を将軍にしなければどうにもならない状況になってしまいました。

将軍就任を要請された慶喜はなかなか「うん」と言いませんでした。

そうして大いにゴネた末に「徳川宗家の当主にはなるが、幕府の将軍職には就かない」と言い出したのです。

当時徳川宗家の当主と将軍職は一体の物で分離して考える者はいなかったのです。

「根性のひねくれた嫌な奴だ」というのが大方の感想でした。

しかし中には、「あれだけ嫌がられているのだから、徹底的にゴネて自分を推戴するムードを作り上げるとはなかなか政治的センスがある」という好意的な見方もありました。

最後の将軍である徳川慶喜はその就任に際して徹底的にゴネて、「徳川宗家の当主にはなるが、将軍職には就かない」と言い出しました。

なんでこんなことを言い出したのか多くの歴史家が理解に苦しみ色々な説をたてました。

しかし、家康の密命を前提に考えると素直に理解できるのです。

家康の密命は、「幕府瓦解の時は、水戸家は天皇方に付いて徳川という家の存続に努めよ」ということです。

慶喜が将軍になった時は、幕府の瓦解は先の見える者にははっきりと分かっていました。

慶喜自身頭が良い上に、非常に高い地位にあったので優秀な情勢分析もあり、幕府の行く末に幻想を抱いていなかったでしょう。

そうなれば先祖である神君家康の命令どおり、幕府を立て直すのではなく徳川という大名家を存続させるのが自分の役割だと思ったのでしょう。

慶喜は将軍職に就くことに徹底的に抵抗しましたが、最後には就かざるを得なくなりました。

そして天皇を擁した薩長と幕府が全面対決することになってしまいました。

ちょうどその時に坂本竜馬が大政奉還を提案し、それに飛びついたのが慶喜です。

これによって慶喜は将軍職を放棄して徳川家を存続させることが可能となりました。

ところが一度動き出した歴史の歯車は、こんな小細工で変えられるものではありません。

薩長方は「討幕の密勅」を捏造し、大政奉還の提案者で人気のあった坂本竜馬を暗殺して(?)戦いをしかけました。

余談ですが、誰が坂本竜馬を暗殺したのか未だに分かっていません。

坂本竜馬の暗殺は重大事件ですから、勝った薩長側が必死になって調べれば分かるはずです。

これが分からないというのは、薩長側が事実を明らかにする気が無かったということではないでしょうか。

薩長の挑発でやむなく幕府側も軍隊を出しましたが、鳥羽伏見の戦場で薩長軍に錦の御旗が翻るのを見て、慶喜は戦わないでそのまま江戸に撤退しました。

これも家康の密命を前提に考えれば素直に納得できます。

以後慶喜はひたすら謹慎し、最後には許されて静岡に天皇から領地をもらい大名になりました。

廃藩置県後は公爵となって余生を送りました。

これが家康の密命の結果だとしたら、さすがに家康は大政治家で遥か将来を見通すことが出来たということになります。


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